2009年05月16日

意識的であることと無意識的であること

青い電気の嵐の年 スペクトルのヘビの月ダリ15日、14モアン、11・空歩く者(キン193)、スペクトルの魔術の亀の日
12.19.16.6.5、3シプ、2チクチャン(KIN145)
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Good &/or Newsなどとして個人的な気づきを書いてみて、改めて認識させられるのは、自分としては「意識的であること」が大切だと思っているということ。

しかし、必ずしも「無意識的であること」を否定しているわけではない。普段の呼吸や歩行など、いちいち意識的に行わなくても、考えなくても適当な行動ができることは、むしろ有難いことだと思う。
自転車や自動車の運転の場合は、最初は何をするのか逐一意識する状態から、経験を積み習熟することで、やがてとっさの状況判断も含めて無意識的に適切な反応をすることができるようになるし、そうした習熟状態のほうがより望ましい状況だろう。
内臓や血流、発汗などの生理的な機能は、自律的であればこそ生命活動の支えになっているわけで、意識的でなければ生命維持が危ういようではたまったものではない。

では、なぜ意識化が大切だと感じるのか理由を考えてみると、四つほどありそうだ。


一つは忘れ物の防止。実際に、忘れ物・落とし物で痛い目にあっている(カミさんの心配、お小言が一番のダメージになる)ので、影響度の大きい物・事に関しては意識化を心がけている。具体的には、メモをとる、行動時に言葉に出しておく、動く前に忘れ物がないかチェックするなどである。

二つ目は、ごく日常的なことで、あって当然のことと無意識になっていることでも、改めて意識化してみると、それが奇跡的に思えたり、大いなる恩寵を感じたりできること。自分という意識を持って、今を生きていること。好き嫌いの志向を持っていることで成長を目指せること。自ら変化を創造することができること。世界に支えられ、また自分なりには支えの一部にはなっていると感じられることなどなど、Good &/or Newsでの意識化はこの目的のために行っているところが大きいと思う。

三つ目は、二番目とも関連しているが、自分が世界を意識化することによって、世界からのフィードバックが期待できること。相手をきちんと認識し、受け入れることで、相手もこちらを認識して、反応を返してくれる。相手視点の思いやりを発揮するためにも、まず相手を意識化することが必要なのだと思う。関心、好奇心、イメージ力、寛容さを発揮し、相手を観る・聴くで受け止め、またポイントを質問する(訊く)ことなどである。

四つ目は、無意識に認識している世界、あるいは意識的に受け止めている世界でさえも、自分という感覚フィルターを通った結果としての、しかも限られた情報に基づく、偏見に満ちたものだということを確認するチャンスになること。この間も、朝のすし詰めの通勤電車で、優先席の前の手すりのあたりに余裕がありそうで、見ると、席に座った中年男性が浅く腰かけて脚を伸ばしぎみにしていたので、迷惑な人、わがままな人という目で眺めていたが、その人の横に杖があるのに気づくと、途端に身体の不自由な方なら仕方ないかと納得している自分がいた。そうした自分の判断は、先のものも後のものも結局のところ勝手に想像したものにすぎず、本当にそのとおりであったのかどうかは分からない。それでもそうした自分の判断に責任は持たなければならないと思うが、もしかしたら間違っているのかもしれないという謙虚さというか心のゆとりは心がけたいものだ。世間の常識とか世論なども、ある環境での多数意見に過ぎないと思うので、それらに無自覚に流されてしまうのはやはり問題なのだと思う。
一呼吸置いてみること、そのように思う理由を3段階ほど確認してみること(3回のなぜ)、尊敬する人物だったらどのように受け止めて行動するか想像してみることなどである。


[Good &/or News]
・爽やかな気候の中、快適に、楽しく過ごせている。感謝!


メモ+8.2


今日はどんな素敵なことが起こるのかな?
そこでどんな奉仕・協力・楽しいことができるのだろう?



at 07:00コメント(0)トラックバック(0)精神世界   このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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