2005年05月25日

自分を広げるということ

青い水晶の嵐の年 スペクトルのヘビの月ガンマ24日
KIN42 3・風

13の月の暦関係では、キンの銀河の音とウィナル周期の日付がシンクロしている。
今日なら「3」という数字の重なりに意識が向く。

話は変わるが、マヤ暦の年始の日付のことでネット検索していたら、なかなか刺激的なページを見つけた。アグエイアス博士の「13の月の暦」だけでなく、他のマヤ暦関連の書籍や海外サイトなどの情報も踏まえながら、独自のアプローチをされている内容を含むページだ。結構なことだと思うし、賛同できるもの、感覚の違いを感じるものも含めて、参考にさせていただこうと思う。
(勝手にリンクもできないので、ご紹介は差し控える。)

調べていたマヤ暦の年始については、「13の月の暦」と同じG7/26とするものもあるが、G1月から4月まで、同じマヤでも地域によって違いがありそうだという感想をもった。
僕自身は、「13の月の暦」を実際に使ってみて違和感がないのと、マヤという地域に根ざした暦をそのまま日本で受け入れることには懐疑的なので、マヤ暦自体にはあまり関心がない。あくまで、「13の月の暦」の関連として興味の対象としていることが分かった。

さて、タイトルと関係のない話だと思われたかもしれないが、たまたま調べていたサイトのなかに、「自分を広げるということへの違和感」として、他者を動かしたいという意図を感じるというような意見(これ自体、わいあーの主観)が書かれていたのに出会ったのだ。そうではないのかもしれないが、自分のことを言われているような気がした。なかなか刺激的だ(笑)。それについて思うことを書いてみたいというのが本日のお題だ。



最初の感覚は、他者からの批判と感じ、ムッとしている自分がいること。まあ、悪く言われることが好きな人はいない。

次の感覚は、何か誤解しているのか、少なくとも僕とは感覚が違うのだろうという想像。妥協へと走っている。

最後に、改めて考えさせてくれるきっかけをくれたことに感謝する。

で、「自分を広げる」ということについて、改めて考えてみたことは次のようなことだ。

僕は、「自分の範囲を広げる」ということを大切だと思っている。
改めて確認してみると、円卓のサイトの自分のプロフィールにも「自分らしく、気持ちよく、自分の範囲を広げることを心がけています。」と書いている。

そうした考えは、「13の月の暦」を知る以前に、精神世界系の方たちとのやりとりを通じてできたもののように思う。(と書いたのは、アグエイアス博士にも関連があるかもという想像というか憶測まで書かれていたことへの勝手な回答である。暦との関連では、宇宙の月の問い「私の歓びと愛をどのように広げるのか?」が思い出されるが、アグエイアス博士が僕と同じようなことを考えているかどうかは知らない。少なくとも何かで読んだことはない。)

まず、自分の範囲を広げるというのは、「自分」という感覚器官や思考を通じてしか世界は認識できないというところから出発している。いかに地球の裏側のことや、宇宙の果ての情報にアクセスしえたとしても、それを知覚し、情報世界として認識を構築するのは「自分」を通じてでしかありえない。(知覚・認識の方法はいくつかあり、それによって構築される世界も異なると感じているが、ここでは触れない。)

次に「自分の範囲」というのが自分自身を中心に幾層にも重なった構造をしているという感覚である。
・肉体が最小単位でもない。髪や爪を切っても自分の一部を喪失した感覚はないし、腹痛が起こると内臓を他者扱いして怒ったりする。
・満員電車でもなければ、知らない人とは直接接触するのは避けるし、パーソナル・スペースの距離をとろうとする。
・家族を他人よりも大切にする。
・高校野球の県大会では出身高校を応援する。
・甲子園の高校野球では、出身県の高校を応援する。
・サッカーでは、日本チームを応援する。
・遠い国よりも近隣諸国に親近感を持っている。
・異星人が攻めてきたら、地球防衛に動くだろう。

こんな具合で、ある見方で他者であったものが、その外側に別の他者が設定された途端に身内になってしまう。つまり、身内感覚としての自分の範囲とは極めて相対的で、かつ意識次第で常に揺れ動いているものだと思っている。

それを踏まえて「自分の範囲」をできるだけ広げたいのだ。それは、なるべく広い範囲を、自分あるいは身内感覚として感じられるようでありたいという願望だ。ある意味、惑星意識を得ることであろうし、究極は宇宙意識に至るということだと思う。

「自分」というとエゴとか利己性がイメージされるかもしれないが、決してそれだけではない。世界への窓として不可欠なものというイメージだ。
世界への窓であれば、自分を捨てて他者をどうこうするというのはありえない。確かに、溺れるわが子を見て自身の犠牲をいとわずに水に飛び込む親もあるが、そのときのわが子は他者ではなく、自分の肉体よりも、もっと大切な自分なのではないだろうか。

そうした世界の窓としての「自分」を誰もが持っていると考えると、世界は意識の数だけあるということで、私が知っている世界とは何て限られたものだろうと思う。いま目の前にいる人には、その人の世界があり、僕と共有しているものもあるが、僕が知らないことも多い。

そうした他者の世界は、自分には想像することしかできないが、思いやる範囲に加えることはできる。関心や興味を持って反応することもできる。
同時に、そこには他者の世界があるのだから、それも思いやりたい。身内感覚でおせっかいを焼きたいとは思わない。ある意味、冷たいヤツでもある。
それが僕の世界を広げるということであり、自分の範囲を広げるということだ。簡単なことではないが、そうした心がけを忘れないでいたいと、やはり思う。

利他が信条の人には受け入れがたい考え方かもしれない。しかし、自分がかわいいという点は素直に認め、自己否定することなく、思いやりの範囲を広げる方が僕の好みだ。
などと思い、書いてはみたが、実際には、特に子どもに対して考えを押し付けがちだし、すれ違う人たちにさえ、「普通はそんなことしないだろう?」などと、自分の思い・期待を押し付けていることもままある。それぞれがそんな思いを重ね、互いに影響を与え合いながら、自分の世界とかかわり、自分という世界は刻一刻と変わっていくのだと思う。間違いに気づけば、反省し、よりありたい自分へと近づきつづけたい。
(長文になってしまった。ここまで読んでいただいた方に感謝。おつかれさま。3・風の日らしく、スピリチュアリティへの奉仕はいかが。)


メモ+4.8


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