2020年07月27日

マヤを標榜しない個人的理由


磁気のコウモリの月セリ2日、1ポプ、黄色い電気の太陽(KIN120)◇

13の月の暦も明けて2日目だが、260日周期のツォルキン暦では電気(3)の音の極性の地球家族ということで、ツォルキンを4分割する季節の始まりを記す日だ。
全体サイクル(260キン)を4分割した(四季に分けた)ものが季節で、260÷4=65キンが季節ひとつ分の日数だ。
65キン=5×13なので、5キンの色彩を単位とするウェイブスペルの構造になっており、その四次元の時間パルサーのスタートを極性キンが表している。(と書いても分かっている人にしか伝わらないだろうなァ。)

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さて、13の月の暦はマヤ暦ではありませんという情報はそれなりに見かける。
すると現代版マヤ暦と紹介する方もおられる。
銀河のマヤ暦という方もおられるようだ。
マヤ暦の情報を元に1990年にアグエイアス夫妻が提唱した新しい暦ということで間違いではないのだろう。また『マヤンファクター』やマヤ神話、預言など、アグエイアス博士のマヤ研究が下敷きにあっての「13の月の暦」だということも間違いない。

しかし、過去のブログ記事を読んでいただければご理解いただけると思うが、結論的にいうと、僕自身は「マヤ暦」という名称、さらにいうと「マヤ」(銀河マヤも含む)というなにがしかを積極的に押し出してはていない。むしろ「マヤ」という用語遣いはなるべく避けようとしている。

なぜそうなのかは個人的な感覚でしかなく、理解者を増やしたいとも思っていないので、あえて説明する必要はないのだが、「13の月の暦」ユーザーの中にも色々な感覚の人がいていいということを認める者として、逆にこのような感覚のヤツもいるんだ(いていいんだ)ということの一つの事例として紹介してみる。


まずカレンダー(暦)とはどのようなものなのかを考えると、年月日のカウントをこのとおりにしますよと権威者が決め、民に使わせるものだと思われる。権威者のイメージとしてはユリウス暦のカエサル、グレゴリオ暦のローマ・カトリック教会、明治政府といった感じだ。

アグエイアス夫妻は、バチカンのローマ法王庁に対してグレゴリオ暦を改暦するよう働きかけもしたようだが、現状はご存じのとおり。
ある意味では公権力による「13の月の暦」への改暦がなされなかったことは幸いなことではないかとも思っている。

なぜなのかというと、「13の月の暦」の構造の特徴としてウェイブスペルも銀河の羅針盤も音の進行方向は反時計回りというのがあり、精神性としても「時は芸術なり」「キンの法則(自律性、同等、忠実)」「生物圏から精神圏へ」「男の神官による時間の盗みからの魅惑の緑の城の回復と時間船地球の出航」「黄色い人の自由意志で戦士の立方体の旅を始める」といった具合で、反権威というか自分自身の権威化がキモだから。
CIMG2062
(音の進行も紋章の進行も反時計回りの銀河の羅針盤)


権威あるものが言うのだからと鵜呑みにするのではなく、最終的に判断する責任は自分自身で引き受けるしかないということを「13の月の暦」は伝えてくる。

そういう意味で、占いとか鑑定でマヤのご宣託という感じでの情報発信は、権威を鵜呑みにすべしという真逆の精神性のものだと感じられるし、そうしたご宣託を求めてしまう意識そのものが外的権威への依存なのだろうと感じてもいる。

自分自身が世界にどのような目を向け、何を知り、どのように感じ、どのような行動を選択するか。それらに自己責任を負っていたい。
もちろん、分からないことも、知らないことも、間違うこともある。不完全で、ちっぽけな存在だけれども、それでも自分の世界を誰かに委ねてしまいたくはない。


そんな偏屈な意識で眺めると、マヤ(暦)という魅力的な言葉の後ろには、未知とか不可思議とかへの憧れ、畏れなど、外部を権威とする匂いがするのだ。
ということで、個人的にはマヤ(暦)に触れることは避けるように意識している。「13の月の暦」は少なくとも古代マヤ暦ではないし、そのようなものにマヤを冠するのは伝統的なマヤ暦を大切にする人に対して失礼だという感覚もある。


マヤ好き、マヤに興味があると言われると、おや外部の権威に惹かれているのかな?と偏見をもつし、たぶん自分とは意識の方向性が違うのだろうと決めつけていたりする。

だからといってそうした人たちを非難も批判も無視もしないが、積極的にかかわるのもお互いに疲れるのではと距離を置くスタンスでいたりはする。


幸せ感じる「13の月の暦」の暦活用ナビゲーターとして、怪しくない「13の月の暦」の魅力を伝えることを掲げている。それは、怪しいと言えば不適切だろうが、説明できない超常的な魅力をもつものとして、この暦がアピールされることも多いと感じているから。それを魅力的に感じる意識の中に外部の権威化が潜んでいるのなら要注意だ。





こんな風に書き出すことで、自分自身の想いの偏狭さにも気づかされる。
本来の占いは、本当に必要な場面で占卜をいただき、決断は自らの意志に基づいてするのだろうと知っているし、お遊びの占いの楽しさもまた知っている。
それでも外部の権威化=自己責任の喪失はいやだし、素晴らしく映る外的な権威があるのなら、それを素晴らしいと感じる鋳型は自分の中にもあるのだと信じている。

(Fbのコメントに対するわいあーの反応も追加しておく)
■(分かる、スッキリしたというコメントに)共感をいただくとやはりウレシイです。
別モンだと、きちんと自分をもつことも大切です。すると銀河の中心は自分の中にも、あなたの中にも、そして誰もの中にも。当然それらはそれぞれ別モンだと、イン・ラケチになれると思うのです。🙂



■(マヤだけではなく、キリスト教、イスラム教、北欧、倫理、易経、チベット密教など様々な精神性がみられるとのコメントに)たしかに「13の月の暦」と総括される情報のルーツはマヤだけではなく、様々な宗教や神話、さらには銀河的なチャネルや思想家の影響があると思っています。で、それらはUR普遍的な宗教・埋蔵経の教えとか、銀河マヤの血統といった知識になるのだと思います。
肝心なのは、それらの知識情報がどこか(アグエイアス夫妻)の素晴らしい知恵だとか、銀河マヤ人の叡智だとかで思考停止してしまうのではなく、そこに響く自分自身がいるということを忘れてはいけないということかと思っています。




waiar56 at 21:35コメント(0)13の月の暦   このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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