2018年12月31日

暦のちから


律動のトカゲの月アルファ19日、18モル、青い月の(KIN67)

年末年始の休暇は、自宅でまったりと過ごしている。
年の瀬、そして新年を迎えるこの時期には、いつも同じ想いをもつ。

2年前のこのブログ「時のちから」
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グレゴリオ暦(西暦)の2018年が満了し、2019年を迎える、年が変わるタイミングに、区切りの整理やまとめを終わらせ、新しい年に備え、新たな年を迎えるという行動や気持ちを抱くのは、西暦というカレンダーに従ったもの。だけど、それはカレンダーのカウントそのものよりも、そうしたタイミングであることを受け容れた私たちの意識の力によるものだなぁと改めて思う。

西暦の年末年始のタイミングは地球の公転軌道の特定ポイントではあるものの、冬至・春分といった地球と太陽あるいは月の相などの天文・自然の周期変化に基づくものではなさそうだ。
すると、人々が受け容れた時間意識こそが年の瀬のあわただしさや年始の清々しさの根源だと思えるのだ。

本来の暦は、天文・自然の周期変化のタイミングを基準にするものだと思うが、そうした基準から外れたタイミングでも人の意識が時間を区切っている。赤穂浪士の討ち入り(12/14)など、旧暦の日付のはずだが、西暦の同じ日付が義士祭として受け容れられる。むしろ意識的な時間の区切りの方がよりパワフルだと感じられる。
日付そのものよりも、それをどう意味づけるのかという人の意識が大きいと思うのだ。

ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦で、10月4日の翌日が10月15日にスキップし、カウントが10日ずれれば、年末年始という時間意識もやはり簡単に動くもののように思う。
暦のカウントに根拠がないとしても、その仕組みで意識する時間には意味づけされ、意識によって力が与えられる。

だから、「13の月の暦」に対しても、日付そのものが根拠や意味をもつものと権威づける方向ではなく、意味づけする自分の意識そのものに向き合い、それを受け容れ、遊ぶ・演じることができるものとして楽しみたいと想うのだ。




タイトルの「暦のちから」に反して、何のことはないカレンダーよりも人の「意識のちから」の方がパワフルだと想っているということ。
それは 、「暦によれば今日はこんな日です。」という御宣託を鵜呑みにするのではなく、こんな日というパワーを自覚的に受け容れ、それに乗っかって演じることの楽しみに価値観を置きたいということだ。

元々、権力者・為政者が制定し従わせるのがカレンダーであり、時間であるからこそ、権威によらず、反時計回りに動くカレンダー(13の月の暦)を自ら選んで使うという「時間の革命」が意味するところの一端はそんなところにあるのだと思う。

waiar56 at 10:32コメント(0)13の月の暦   このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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